教師人生を楽しむヒント

野口芳宏先生最終講義

平成十三年三月二日

北海道教育大学教育学部函館校

開会の言葉

内藤一志先生（北海道教育大学教育学部函館校）

　それでは野口芳宏教授の最終講義を始めさせて戴きます。改めて野口芳宏先生をご紹介いたします。野口芳宏先生は、平成八年四月に、ここ北海道教育大学教育学部函館校に赴任なさり、国語科教育の教授として五年間教鞭をお執りになりました。この五年間、皆さんの方が良くご存知かもしれませんが、第二著作集や「鍛える国語教室シリーズ」の単行本を執筆なさる一方で、明治図書から発行されている季刊雑誌「鍛える国語教室」も継続して発行なさいました。

　旺盛な著作活動の一方で、まさしく「全国行脚」という言葉にふさわしく、全国で模擬授業及び講演をなさってきました。

　本日は「教師人生を楽しむヒント」と題しまして、これから学生諸君が、そしてここにいらっしゃる多くの先生方が、これからどのように教師人生を過ごしていくべきかというお話をして戴きます。

　それでは野口先生、お願いいたします。

歓迎の挨拶

　改めまして皆さんこんにちは。それぞれ色々なお仕事がおありだったでしょう。お忙しいところを私の最終講義に合わせて貴重なお時間を割いて戴き、本当に有り難うございます。心から御礼申し上げます。また、このような機会をお作りくださった国語科教室の先生方、どうも有り難うございました。

　最終講義にはふさわしくないかもしれませんが、ざっくばらんな話をさせて戴こうと思っています。お付き合いをよろしくお願いいたします。

　「教師人生を楽しむヒント」という表題ですので、教師を志さない方、或いは教師ではない方には若干失礼かもしれませんが、様々な生き方がございますので、「ほうほう教師の場合はそうなのか」と好意的に受け止めて戴ければ幸いです。

　始めに、簡単に私の経歴を申し上げます。私は三十八年間、小学校の教師だけを勤めてきました。団体職員にもならず、教育委員会にもご縁を持たずに、専ら小学校現場だけで過ごして参りました。その後、退職と同時に北海道教育大学函館校にご縁を戴き、お世話になりました。私は初めの挨拶で、

「私は定年就職です」

と申し上げました。それから早くも五年の月日が経ちまして、今日を迎えることができました。お蔭様でこの五年間は、これまでの私の人生の中で最も輝かしく、最も贅沢な時間でした。最も幸せな時間だったと言うこともできます。その時間を共にお過ごし下さった皆さんとのご縁に改めて深く感謝しています。

１．教師人生の有り難さ、すばらしさ　

　それではまず初めに、教師人生の「有り難さ、すばらしさ」についてお話しさせて戴きます。

　「有り難い」というのは感謝の表現ですが、「感謝」というのは自覚をしない者にとっては感じることができません。幸せも同じです。私は感謝も幸せも、自覚すること、気付くことがとても大事だと思っています。私は小学校での三十八年間、大学での五年間、合計四十三年間も教職という身でお世話になることができて、つくづく有り難かったと思っています。

（１）　経済的な安定

「有り難さ、すばらしさ」は第一に、「あまりお金に縁を持たなくても良い」ということです。今、日本の経済社会はバブルが崩壊して、大変なことになっています。色々な街をお訪ねしますが、駅前の商店街が大変さびれてきて、思いがけない所にシャッターが下りています。かつて賑わったであろうアーケード街がまるでシャッターアーケードになっている所もあり、大変淋しく思います。あのシャッターを下ろすまでには随分なご努力があり、そして最終的に店をたたむことを決意したときには、かなりの借財もあったことでしょう。それは大変に悲惨であり、お気の毒です。

　私たち教師はそういった金銭面からある程度解放されています。「今日は九の段を教えたから、七十円貰うよ」とか、「あんたようやく六の段が終わったね。じゃあ三百六十円になります」なんていうように、教育が金で換算されることになると、随分淋しいことだろうと思います。不景気にも関わらず、私たち教師の給料は、ほぼ安定しています。経済的に保障されているということは、大変有り難いことです。

　私は四月から年金を貰います。これは不労所得です。どのくらい貰えるのか、ご関心をお持ちの方もおありでしょう。概算ではありますが、三十万円を少し割るくらいの不労所得が、毎月与えられます。私に万一のことがあった時、私の家内には毎月十五万円くらいの生活費が保証されます。それも一生保障されるのです。

　このような仕事に就くことができたことは大変有り難いことです。その有り難さに気付かなければ、罰が当たるのではないかとさえ思います。

（２）　利他労働

　「有り難さ、すばらしさ」の第二は、私たちの仕事は、利他労働であるということです。己に利する利己的な労働ではなく、子どもたちの幸せを念じ、子どもたちのためになることに全力を尽くし、そのことによって喜びを得るという利他的な労働です。

　これを昔の人は「聖職」と言いました。この言葉は戦後になって、使われなくなりましたが、私は「聖職」という言葉はある一面を鋭く言い当てていると思います。利害得失から離れたところで、専ら人様に喜んで貰うという仕事に打ちこめるということは、大層有り難いことです。

　私の人生に最も大きな影響を与えた人は、平田篤資先生という内科のお医者さんでした。千葉県でも一人か二人しか合格できないという、難関の東京帝国大学の医学部を卒業された先生でした。私はこの先生によって人生への眼を開かれ、また本を読む喜び、考える面白さも教えて戴きました。この尊敬する平田先生がある時、

　「おれはお前が羨ましいよ」

とおっしゃいました。私は耳を疑いました。私が尊敬してやまない大先生が、なぜ私なんかを羨むのかと思いました。

　「どうしてですか、先生」

と訊かずにはいられませんでした。すると先生は次のようにおっしゃいました。

　「おれたち医者は病人を相手にする仕事だから、治してもせいぜい普通までにしか戻らない。しかしお前たち教師は普通の子を預かり、もっと大きな可能性を育んでいく仕事に就いている。それを思うと、おれは本当に、お前が羨ましいよ」―と。

私はそれを聴いて涙ぐみました。私はそれほどすばらしい仕事に就いているのかということに改めて気付かされ、大変に励まされました。それからは努めて、平田篤資先生の言葉を裏切ることがないように、自分自身を前向きに導こうとしてきました。しかし、非才の故に力及ばず、現在のような体たらくであります。

（３）　子どもとの付き合い

　「有り難さ、すばらしさ」の第三は、子どもと付き合えるという、とても贅沢な日々を過ごすことができるということです。子どもは無邪気だと言います。無邪気というのは、「邪気無し」ということです。大人が邪気に満ちているとまでは申し上げませんが、子どもというのは無邪気です。打てば響き、真剣に話を聴き、なるほどと思えば深く頷き、さっそく行動を改めて、先生の期待に応えようとする、そういう純真さが小学生にはあります。

　私が六年生を受け持っていた時に、授業で、

　「私たちは憧れを持つことが大切だ。何に憧れるか、何に憧れ続けるかということで、人生が決まっていくのだ。だから、良い憧れを持つことが大切だ。先生も、憧れを持っている」

と言って、黒板に「憧れ」と書きました。書きながら私はハッとしました。あこがれ「憧」という字はりっしんべんに童（わらべ）と書く、ということにその時初めて気が付いたからです。私は、

　「みんな、この字を見てごらん。今先生は気が付いたのだけれど、あこがれ『憧』という字はりっしんべんに童（わらべ）と書くのだね。わらべというのは子どものことだ。みんなの邪気のない純真な心こそ、いつも憧れを持って生きているということだ。大人になった先生は少し淋しい気がする」

と話しました。憧れを持つには無邪気であることが前提になるのかもしれません。

①　卒業式に見る子どもの純真さ

　子どもというのは純真で、本当に教え甲斐があります。卒業式というものを見ても、保育園や幼稚園の卒園式というのは感動的です。私は管理職に就いてからは、保育園や幼稚園の卒園式に、来賓として出席することがよくありました。式で見せる、先生の教えに応えようとする子どもたちの素直さに、目頭が熱くなります。賞状を貰う時には、きちんと園長先生の顔を見て、左手をまっすぐ前に出し、次に右手を前に出すという、教わった通りのしぐさで受け取ります。

　小学生もそれくらいは守れますが、中学生になるとふざけた生徒が出てきます。非常に不愉快です。高校の卒業式では聞くところによると、一つのパフォーマンスの会になっている所もあるそうです。私は実に下らないことだと思います。

②　大学の卒業式

　私はこの大学の卒業式はどのようなものだろうかと、赴任の初年度は大きな期待を抱いて正装して参列しました。驚いたことには、音楽の先生が心を込めて『君が代』をお弾きになっているのに、学生は誰も歌わないのです。歌っているのは教官と保護者だけでした。私は大変不愉快でした。式が終わってから卒業生に、なぜ歌わなかったのかと問いますと、学生は、

　「私たちは『君が代』を教わったことがないからです」

と答えたので二度驚きました。本来は、保育園や幼稚園や小学校の卒業式にはまだまだ幼さが残っていて、乱れがあるけれど、中学校、高校、大学と進めば進むほどしっかりとした卒業式がなされるべきです。しかし、現実には、幼い子どもほど立派であり、教育を受けるほど崩れていき、大変残念に思います。私は以後、この大学の卒業式には出ないことにしました。今年は私が担任する学生が卒業しますので、君が代をしっかり歌ってくれるでしょうし、望ましい態度で式に臨んでくれるだろうと思います。私も威儀を正して参列するつもりです。それは私の、この大学における卒業式列席の最後でもあるからです。卒業生のみなさんは是非、良い卒業式を迎えてください。

２、　本務、本業を楽しむ

　大きな話題の二つめに、「本務、本業を楽しむ」ということをお話し申し上げます。

（１）　五時から人間

かつて「五時から人間」という言葉が流行しました。午後五時までは勤務に縛られていますが、午後五時からは勤務から解放され、飲みに行ったり、パチンコをしたりして遊びまわる人のことでした。逆に「五時まで人間」という言葉もありました。勤務で神経をすり減らし、消耗して家に帰宅する人のことです。この流行語が広まった頃には「五時から人間」を褒め称え、「五時まで人間」を軽蔑する風潮がありました。

　私はこの流行語はふざけた言葉だと思って、反感をもっています。正確に言えば、同情しています。午後五時までの時間は、一日の中で最も精神が瑞々しく、やる気が横溢した時間帯です。そのようなすばらしい時間帯に、自分がこれと定めた職業に打ち込めるというのはとても幸せなことです。

　五時までのすばらしい時間を不満の中で過ごし、それが終ってから楽しい時間がようやく来るのならば、その人の職業人生は随分お気の毒だと思います。人生は一日一日の積み重ねですから、一日八時間の労働、つまり「本務、本業」に楽しみを見出すことが、大変幸せな人生だと思います。

　私は本務、本業にたまらない面白さを覚えました。「今日はあんなことをやろう、子どもはどんな反応をするかな」と考えて学校に出勤するのが本当に楽しみでした。その仕事が楽しくて、五時を過ぎてしまうことがほとんどでありましたし、時に深夜に及ぶことさえありました。私の楽しみ、喜びは「本務、本業」の連続の中にありました。そういう中で私は実に四十二年間を過ごして参りましたが、それを省みていささかの悔いもなく、随分贅沢な仕事をさせて戴いたものだなあ、と感謝の念で一杯です。

　しかし現実の教師集団には、本務、本業をまことにいい加減にやって、勤務が終わると途端に学校を飛び出すように出て行き、それからの自分の楽しみにうつつを抜かす「五時から教師」も結構多くいます。

（２）　本務、本業を充実させるために

　それでは、本務の中に楽しさを見つける、本業の中に自分の人生を燃焼させるにはどうすればいいのでしょうか。それは本務、本業を充実させるための学びをするより如くはありません。自分が学んで力を付ければ付けるほど、子どもは正直に応えてくれるものです。それは登山に例えると、低い裾野から見える景色は限られていますが、高みに登れば登るほど、視野がそれだけ広がり、はるか彼方までもが視界に入ることに似ています。反対に自分の教材研究が足りないとき、子どもの反応が鈍くなるのは実に正直であり、当然のことです。

　未熟な若い時から経験を積んで今日に至り、私はいよいよ教育が面白くなってきました。自分が学び、だんだん深いところまで分かってくると、いよいよ教育の面白さはその度を増し、濃さが加わるように思います。また自分を磨きながら子どもと接していくと、子どもは私の努力にきちんと応えてくれるものであります。

３、子どもとの楽しみ　

　大きな話題の三つめは「子どもとの楽しみ」です。子どもは多くの楽しみを教師に与えてくれます。これは他の世界では味わえない喜びです。

　私は今、大まじめに話をしていますが、割合ユーモアもあるのですよ。結構冗談を言ったり、子どもをからかったりして、子どもたちからはお蔭様で好かれていました。

（１）　「君には社会科の素質があるぞ」

　初めて私が受け持ったのは五年生の子どもたちでした。この中に、吉橋茂くんという子がいました。今は実名を挙げずに「Ｙくん」なんて言ったりしますが、そうするとどうもイメージが湧かないので本名で申し上げます。

　茂くんはさほど成績の良い子ではありませんでした。ある時、社会科の時間に日本地図を見せて私は、

　「どうだい、日本の形を見て、何か気付くことはないかい？」

という何の工夫もない発問をしました。子どもたちはみんなぽかんとしていました。私は何とか答えさせようと思って、茂くんを指名しました。すると彼は大変困りながら、

　「縦に細長い」

と答えました。それを聞いて他の子どもたちはどっと笑いました。私はクラスの笑いを制して、

　「なるほど、茂くんはすごいことに気が付いたね。日本という国は縦に細長い。だから北海道から九州まで、（当時まだ沖縄は復帰していませんでした）非常に寒い所から暑い所まであるんだよ。だから日本は旅をすると、景色の美しさがみんな違うんだ」

と言いました。すると茂くんは吃驚しました。怒られると思って答えたのに、却って褒められたのですから。そこで私は茂くんに、「他にないか」と尋ねました。すると彼は、

　「周りが海に囲まれている」

と答えました。私が、

　「おお、茂くんの発見は大変なものだ。これに気が付いた人はいるかい」

と言うと、他の子たちはぽかんとしていました。それから私はこれから学習する鎖国の話をしたり、海に囲まれていることがいかに平和を守ることに適していたか、日本固有の文化が栄えてきたか、しかし、鎖国によって逆に文化の遅れをとったか、などを話しました。こうして彼の二つの発言をべた褒めし、最後に私は、

　「茂くん、君には社会科の素質があるぞ」

と言いました。その時から茂くんはその気になりました。社会科の勉強には大変熱心に取り組むようになったのです。他の子どもたちは、

　「社会科のことは、茂くんに聞こう」

と言うようになりました。周りにそう思われたので、いよいよ本人もそうしなければならなくなりました。ついに彼は、三学期に「４」の成績をとったのです。人間は一つのことに自信を持つと、他のことにもそのファイトや喜びが波及していくものです。色々な問題行動があった彼でしたが、その後は、とても立派に育ちました。私が新卒駆け出しの頃の、忘れられない子どもです。

（２）　「先生、イヌではいけませんか」

なきがらや秋風かよふ鼻の穴

　飯田蛇笏の絶唱です。私が大好きな俳句です。六年生にこの句を教えようとして黒板に大書した途端、教室はどっと沸きました。子どもたちに分かるのは「鼻の穴」だけなのです。だから、そのイメージだけが浮かんだのでしょう。子どもに「読んでごらん」と指名すると、「泣きながらや…」などと間違えたりしていました。こうして授業が始まりました。

　「なきがらというのは、死んだ人の躯のことである。鼻の穴は呼吸をするためにあり、私たちは呼吸によって、生命を保つことができる。そんな大切な鼻の穴も、なきがらになってしまえば唯の穴にすぎない」

というようなことを子どもとのやり取りを通じて分からせていきました。突然、ある女の子が泣き出しました。

　「私のことを可愛がってくれたおばあちゃんが亡くなった時のことを思い出して、悲しくなりました」

というのです。その話を聞いて、あっちこっちで、もらい泣きが始まりました。

　げらげらと笑いながら出合ったこの句に対して、すすり泣きで授業が終わるようになるなんて、なんと私はすばらしい国語教師だろう、と思ったその途端、鈴木智文くんという子がこう言いました。

　「先生、そのなきがらは、イヌではいけませんか」―と。

それを聞いて私は、「バカヤロー、ここまでおれが力を尽くして優れた鑑賞に導いてきて、まさに頂点に達したその中で、『イヌではだめか』とは何事か」と怒鳴りつけようと思ったのですが、ハッとしました。考えてみれば、この世に生を受けてまだ十二年しか経っていない子どもたちは、人の死に直面するということはまれな筈です。そこで、

　「みんなの中で、人の死に直面したことがある人は手を挙げなさい」

と尋ねたところ、四十四人のうち、わずか七人でした。その時、私は「子どもたちは経験がない中でイメージを描いている。すると智文くんが『イヌではだめか』と言ったことには、訳がありそうだ」と思いました。そこで智文くんに「なぜイヌだと思うのか」と問いますと、

　「僕がとても可愛がっていたイヌが、だんだん具合いが悪くなって、ある朝死んでいました。昨日まで濡れていた鼻が乾いて死んでいた姿を思い出しました」

と答えたのです。私は何といい気になって教えていたことかと深く反省しました。私は、

　「智文くんが描くイヌのイメージでも正解だな」

と言って詫びました。忘れられない授業の思い出です。

（３）　「たべちゃいやだよう」

　一年生を受け持っていた時のことです。理科のテストをしました。テストには蟻と蟻巻（ありまき）の絵がありまして、設問はアリマキに矢印が向いていました。「このむしはなんというでしょう」という問題です。答えは「アブラムシ」でも「アリマキ」でも正解です。

ある子どもの答案を採点していたところ、「たべちゃいやだよう。たすけてよう」と書いてありました。私は国語教師として鑑賞指導に力を入れていまして、登場人物の心の中を、しばしば吹き出しに書かせては、心情同化を図っていました。その子は理科のテストでも、いつもの勉強の通り「アブラムシ」の身になりきっていたのでしょう。

「このむしはなんというでしょう」の問題に「たべちゃいやだよう。たすけてよう」の答えです。私は三重まるを付けまして、「これはすばらしい答えだ」と言って返しました。一年生の子どもたちながら、みんなが手をたたいてその子の答え方を喜んでくれました。

（４）　「先生のバカァッ」

　次も一年生の子の話です。放課後算数のドリルをやってから帰していました。全問正解で「よしっ」と言われたら帰っても良い、ということにしていました。ある日、大方が帰ったのに、勉強の良くできる緑ちゃんが残っていました。普段は真っ先にまるを貰って帰る子です。なかなか帰らないので私は、

　「どうしたの、緑ちゃん。お腹でも痛いの」

と声を掛けました。すると彼女はこれ以上の憎しみはないというような恐ろしげな表情で私を睨みつけ、ポロポロ涙をこぼしました。そして大声で、

　「先生は『よしっ』って言わないじゃないかっ。先生のバカァッ」

と叫びました。なるほど、私は彼女のノートにまるを付けはしましたが、たまたま一言「よしっ」と言わなかったばっかりに、緑ちゃんは帰れなかったのです。私は抱きしめて、

　「いやあごめんよ、ごめんよ。すまなかったね」

と謝りました。一年生の子どもの純情さを改めて感じた思い出です。

　彼女は結婚式に私を呼んでくれました。何と理学博士の学位を持っていました。ご主人も理学博士です。私は式辞でその時の話をして、

　「小さい時は、こわいお嬢さんでした。今では見違えるように優しい女性になって、何よりです」

と申し上げました。

　教師という仕事は、日々ドラマに満ちています。もちろん癪に障るようなこともありますが、過ぎてみればみんなすばらしい思い出です。つくづく私は、小学校の教師という仕事ができてよかったなあと思います。

４、親との楽しみ　

　四つめは「親との楽しみ」です。子どもには必ず親がいます。親御さんの中にも様々な方がおります。私は様々な出合いの中で、多くのことを学ばせて戴きました。

（１）　家庭の哲学

　ある家庭で夕飯に呼ばれたときのことです。私は客ですから当然、一番の上座に招かれて座りました。私の次に座ったのは七十五歳を過ぎたおばあちゃんでした。それからお父さん、お母さん、子どもの順に座りました。

　私は色々なお宅を訪ねますが、ほとんどの家庭では年寄りの方は一線を退き、出てきません。出てきたとしても、少し挨拶をして、席を外しています。ところがこの家庭では、私の次の上席におばあちゃんが座りました。私はその座り方を見て「この家庭は立派だなあ」と大変感心しました。

　ほんの小さなことからその家庭の暮らし方、ものの考え方、家庭の哲学が読み取れます。私はしばらくたってから、

　「いやあ、羽深さん、おばあちゃんに上席に座ってもらって私との時間を過ごしてくださったことにとても感動しました」

と申し上げました。そのお宅にとっては当然のことであり、私にそのように言われて少し驚かれたようでした。こういう家庭の中で子どもは、ものの順序、軽重というものを学んでいきます。こうして育てられる日々はとても大切な意味を持つと思います。

　千葉大附属小で彼が五、六年生の時に私が受け持ち、その後開成中に進み、東大の法科を在学中に上級試験に合格し、大蔵省に入りました。彼は、

「将来は日本を動かす総理大臣になる」

と夢を語っていましたが、私はその夢がやがて正夢になり、羽深総理大臣が誕生し、少し骨っぽい政治が実るのではないかという期待を持っています。

(２)　約束の色紙

　石川令子ちゃんという女の子がいました。この子は五年生になって私と出合った子です。この子は内気な性格で、あまり友達付き合いも活発ではない子でした。この子は私と出合ってから、徐々に成績が良くなりました。それまで学校に行くことを嫌がったこともあったそうですが、喜んで来るようになりました。また、家でも一生懸命勉強するようにもなりました。

　一学期が終わって、お母さんが大変喜んで、

　「この子はとても元気になりました。野口先生に出合ってから学校が大好きになり、勉強も頑張るようになりました」

と言ってくれました。二学期になってからは、益々成績が上がりました。お母さんの喜びは大変なもので、

　「私は心から野口先生に感謝しています。先生に出合わなかったら、こんなに良くはならなかったと思います。本当に有り難うございました」

とべた褒めをしてくれました。私は、

　「それは、私が偉いのではないのですよ。令子ちゃんが偉いのです。もしも私の力だとすれば、このクラスのすべての子どもたちが令子ちゃんのように成績が上がるはずですが、そんなことはありませんからね。令子ちゃんが私の話を一生懸命聞いてくれるから、成績がこんなに良くなったのですよ」

と言いました。するとお母さんは感激して、

　「先生はすばらしい方ですね。私は父の所へ遊びに行くと、いつも令子の話と同時に野口先生の話をしているのですよ。父も野口先生には心から感謝しています」

と言いました。この「父」というのは、三村秀竹先生という書道の大家です。書道の世界では知らない人はいませんでした。日展の審査員も務めていらした方です。

令子ちゃんのお母さんは一人娘でしたが、師匠を頂点とする弟子たちのピラミッドのような上下関係の世界に嫌気がさして、家を出て普通の結婚をした方です。きっと青春の反発があったのでしょう。ですが、令子ちゃんは初めて授かった孫ですから、お父様も目に入れても痛くない程可愛がっていたのでしょう。そんな先生が私に感謝をしてくださっていると聞いて、私は驚きましたが、この言葉を私は聞き逃しませんでした。

「本当にお父さんも感謝してくださっているのですか」

と尋ねると、

　「それはもう、大変感謝しています」

と言いました。

　「それならば、何か証拠を見せて戴けますか」

と、問いますと、彼女は、

「証拠って、何ですか」

と、言いましたので、私は、

「できれば短冊か色紙を一枚貰えると有り難いのですが…」

と申しました。すると、お母さんは、

　「お安い御用です。父に頼んで書いて貰います」

と言ってくれました。

　ところが一ヵ月、二ヵ月、三ヵ月経っても何の音沙汰もありません。私は「何と厚かましいことを言ってしまったことだろう。きっと、『おれを何と心得るか。たかが孫の小学校の担任の分際で、日展の審査員の短冊、色紙をねだるとは、驕りもいい加減にしろ』と大先生の逆鱗に触れてしまったのだろう。あんなこと言わなければ良かった」と後悔しました。

それから十ヶ月ほど経ったある日のこと、件のお母さんが、

　「野口先生、あの時お約束した父の作品がようやく出来上がりましたので、お持ちしました」

と言って学校に来られました。でも彼女は手ぶらなのです。聞くと、車の中にあると言うのです。私は、

　「ここに持って来てくださればよかったのに」

と言いますと、自分一人では運べないと言うのです。私は驚きました。

お母さんの言うには、

　「父は『孫娘がお世話になっている大切な先生に作品を差し上げるのだから、いい加減なものは書けない』と言ってあれから色々な作品を書きました。しかし、なかなか納得のいく作品が出来なかったようです。ようやく得心のいく作品が出来たそうなので、私が預かってきました」

とのことでした。私はその話を聞いて更に驚き、そして、内心「やっぱり、言ってよかったな」と思いました。

　それから玄関を出て、車の中を見ますと、大変立派な額の中に、すばらしい字が書いてありました。でも、価値のあるものは分からないものです。私には全然読めませんでした。彼女は解説してくれました。

春色無高下　　（しゅんしょくこうげなけれども）

花枝自短長　　（かしおのずからたんちょう）

「春の陽射しは燦燦と普く降り注ぎ、そこに高下の隔てはない。しかし、普き陽光を受けて育つ花や枝には自ずと短いものや長いものができる。その一人ひとりの個性をよく見つめながら、温かく育んでいくのが学校の先生の仕事である」という、それはまさに私に相応しい言葉でした。

私は読み方を教わって、一層深い感動を覚えました。その作品は、今でも私の家の玄関に大切に飾らせて戴いております。

５、先輩・同僚との楽しみ

五つめは「先輩・同僚との楽しみ」です。教師の社会的なステータスは決して低いものではありません。昔に比べればかなり低くはなりましたが、それでも見捨てたものではありません。

教師集団にはすばらしい先生がいます。むろん、そうではない先生もいます。そうではない先生には目をつぶり、すばらしい先生から学んでいくことによって、私たち教師の未来はぐんぐん輝かしいものになっていきます。

（１）　校長のあり方

千葉県の教職員組合が力を持ちすぎて、その教育に偏りが生じてきたということで、しっかりした指導ができる教育長を呼ぼうということになりました。それまでの千葉県教育委員会の教育長はすべて、千葉大学の先生でした。理由は教え子がたくさんいるからです。ですからどうしても「馴れあい」と「癒着」が起こります。だんだんそれが高じたある時、千葉県の将来を憂い、文部省から若い教育長さんが来ました。鈴木勲先生という、後に文化庁長官をなさった先生です。

この先生が教育長に就任されたということは、千葉県の教職員組合にとっては、恐ろしいことでした。今までのような訳にはいかないのです。この先生を招いた教育庁の幹部が一番心配したことは、鈴木先生のお子様をどこの小学校に入学させるかということでした。公立学校に入れて万が一のことがお子様に起これば大変です。ですから千葉大附属小学校に入学させて欲しいとのことでした。

その時は既に二月で、千葉大附属小学校の補欠入学試験が済んだ後でした。どのクラスも四十人の人選が終わっていて、一人の子どもも入れるゆとりはありませんでした。当時の附属小学校の校長先生は、市原権三郎先生という方でした。教育庁の幹部から相談を持ち掛けられて、市原先生は教育長のお子様の入学を引き受けてきたのでした。

附属小学校というのは言うなれば猛者教員の集まりです。弁も立ち、一筋縄ではいかない者がいっぱい集まっています。「我々の意向を無視して独断で引き受けたこと」と、「少しのゆとりもないところに、例のない四十一人学級を作るという非常識」これに職員は反対しました。私も反対の急先鋒でした。

職員会議は二時間、三時間と長引きましたが、全く進展がありません。私は若気の至りで、この辺りでとどめを刺すつもりで、

「もしも親から『なぜ四十人学級の定員に一人多くいるのか。違反をしているのではないか』と問われたら何と説明すればいいのですか」

と発言しました。この質問に対する市原校長先生の答えは実に立派なものでした。

　「野口くん、その時は君が答える必要はない。私の所へ連れてきたまえ。私が説明する」

というものでした。

　私はそれを聞いて校長というもののあるべき姿に気付かされ、感動し、恐縮しました。それまで反対の急先鋒だった私は立ち上がり、

　「よく分かりました。校長先生にそれ程のお考えがおありならば、私たちが反対するのはまことにおこがましいことです。私は四十一人学級にすることに大賛成です」

と言って、四十一人学級が誕生しました。鈴木先生のお子様の一人は私のクラスに入りました。

　人の上に立つ校長とはどうあるべきか、ということを市原校長先生は身をもって示してくださいました。「右顧左眄、世に阿り、節を曲げるようなことは断じてすべきではない。しかし、重大な決断をすべき時には自らの体を張って、受けて立たねばならない。それが責任のある者の取るべき態度なのだ」ということを市原先生から学びました。この姿勢は私が教頭になり、校長になってからも、片時も忘れず、自戒してきたことです。

（２）　責任者としての深謀遠慮

　「頭の体操」で有名な多湖輝先生も、千葉大附属小学校で出合ったすばらしい校長先生です。

　附属小学校の入学試験というのはエリートが非常に注目を寄せる出来事です。ですからいささかのミスも許されません。ところが大変なミスをしてしまったことがありました。

　体調が悪い子は、保健室でベッド受験をすることになります。ある年、何を間違えたのか、すべての試験日程が終わって受験生を帰した後に、ベッド受験をした六人の子どもたちが、体育の実技試験を受けていなかったことに気が付きました。気付いたその時はもう夜でした。教務主任だった私は、対策について相談を受けました。私は非常に単純な人間ですから、

　「それならばベッド受験の子には、実技試験の平均点を加点すればいいじゃありませんか」

と言いました。校長先生も納得され、私は我ながら名案を思いついたものだと思っていました。

　それから三時間程経ってから多湖先生は、

　「野口さん、どうもねえ、あれはまずいよ。仮にその子たちが合格すれば、体育の実技試験を受けずに合格したことになる。もしも社会的な批判を受けたならば、説明のしようがない。もし落ちたとして、後になってから体育の実技試験を受けていなかったことが分かれば、これもまた大変だ。いずれの場合にも新聞沙汰になれば、申し開きができないよ」

とおっしゃいました。私は安易に考えていたのですが、多湖先生は二時間、三時間もかけて、責任者として、それで良いのかということを考えておいでだったのです。夜九時を過ぎていましたが、ベッド受験をした六人の子どもたちの家に私が電話をしました。こちらの非を認め、お詫びをして、次の日の朝に体育の実技試験を改めて実施させて貰いました。

　私は多湖先生の深謀遠慮に舌を巻きました。『スイスイ、ホイホイ勉強術』なんていういかにも軽妙な題名の本をいくつも出しておられる先生ですが、一旦責任のある立場に就いたその時の慎重な判断は実に立派でした。

　教師は一面気楽な職業ですが、一旦社会的な裁きを受けた時に、もしこちらに非があれば容赦なく糾弾され、それを甘んじて受けなければなりません。そういう重要な時にはどうしなければいけないのかということを、市原先生、多湖先生は事実で示してくださったと思います。私にはとても有り難い出合いでした。

６、人生これからが楽しみです

　学ぼうとする気持ちさえあれば、人生は歳を重ねるごとに、面白みを増します。歳を取るのは避けたい、というのが俗人の思うことですが、千葉大附属小の校長であった体育学の島田良吉先生は、酒を飲むとよく、

　「歳をとるっちゃ、すばらしいことだぞ、野口さん。見えないものが見えてくるからなあ」

とおっしゃいました。

　六十五歳を迎えた私は老人です。老境に入りはしますが、益々これからの人生が楽しみです。分からないことが一杯で、知りたいことが一杯で、出合いたい人もたくさんいます。老境に入るということは諦めたりがっかりすることではなく、いよいよ希望が持てることだと思います。

　四月から私は郷里の千葉に戻りますが、北海道でお世話になったご縁を大切にしながら、益々元気に、神様のお召しがあるまで一生懸命生きていきたいと思っています。

　もしも私にもう一度人生が与えられたならば、私はもう一度小学校の教師を勤めたいと思います。そして、六十歳まで勤め上げたその後に、五年間大学にお世話になることができたならば、二度繰り返しても尽きない楽しみが私に訪れるだろうと思います。

　小学校の教師として三十八年間を過ごし、その後、思いがけないご縁を戴いて五年間を大学で過ごせた私の人生は本当に有り難いものでした。心から感謝しています。

　お約束の時間になりましたので、終わらせて戴きます。ご清聴戴きまして、どうも有り難うございました。（拍手）

　閉会の言葉

　野口先生がここ北海道教育大学函館校に赴任なさる仲立ちの労をとってくださった、岩手大学教育学部長の望月善次先生から祝電が届いていますので、紹介させて戴きます。望月先生はこの最終講義にいらっしゃると伺っていたのですが、急用のためにやむなく欠席ということです。

　「参上できず残念です。最終講義のお祝いを申し上げると共に、函館の地へお出かけくださったことを感謝し、今後の一層のご活躍をお祈りいたします」

とのことです。尚、望月先生からは花束も届いています。改めて拍手をお願いします。（拍手）

　それではこれで、最終講義を終わらせて戴きます。みなさま、お忙しいところ、どうも有り難うございました。

　改めて野口先生に拍手をお願いいたします。（拍手）

参照文献

『授業で鍛える』　（明治図書　教育新書）　Ⅲ学習意欲を高める鍛え方（１　子どもをほめる）

『作文で鍛える（下）』　（明治図書　教育新書）　Ⅱ学ぶことの喜びを（二　豊かな想像の演出を）

『授業の話術を鍛える』　（明治図書　教育新書）　Ⅴポイント話術で深い追求を（六　発言の受けとめ方、生かし方の話術）

『フーちゃんがんばれ』　（明治図書　家庭教育新書）　（先生の馬鹿ァ！　りっしんべんのつく漢字　天下の名答案出現）

『名人への道』　（日本書籍）　１出合い　（出合い　その１　どのような人と、どう出合ってきたか）　　ほか

文責　　北海道教育大学教育学部函館校

　　　　４年　近藤　章　